デジタル大辞泉によると、筋金入りとは「筋金がはいっていること。転じて、身体や思想などが十分に鍛えられていて強固なこと。」
あの人は筋金入りのナントカだ、というときはニュアンスが少し変わって、こんな意味として使われているのではないでしょうか。
- 昔から変わらず強烈に~だ
- ずっと軌道をそれることなく~に情熱を傾けている
- 確固として忠実に~を続けている
リアルに出会ったり、本やブログを読んで見つけると、わたしはこういう人を、親愛の情をこめて「すじがねさん」と呼んでいます。
わたしにとって「すじがねさん」と出会うこと、その人が何の「すじがねさん」なのかを考え出すことは、生きる楽しみのひとつでもありライフワークでもあります。
あなたはどんなすじがねさんですか?
オリンピックのフィギュアスケート動画を観ながら(我が家はテレビがないのでノンビリYouTubeです)、これはビデオになるのを待たずにとっとと劇場に観に行こう!と思った映画があります。
「I, Tonya(アイ、トーニャ)」という、女子フィギュアスケートのトーニャ・ハーディング選手の伝記映画です。
ハーディング選手は、1994年のリレハンメル・オリンピックの直前、ライバル選手の脚を(ボディガードに)警棒で殴らせたとして、オリンピック出場後に司法取引に応じ、執行猶予つき有罪を選んだ人。無罪を主張しています。
ハーディング元選手が最近のインタビューで、(女子選手として米国で初めて)トリプルアクセルを決めた自分の映像を観ながら:
“Coming down, on one leg.
I just did it. Nobody else did it.
Nobody helped me land that triple axel. Right there, in that moment.”
190kgの負荷に耐えて着地させてくれるのは自分の片足で
その瞬間、氷の上では誰も私を助けてなんかくれない
誰もやらなかったことを自分ひとりでやったのだ
こんなふうに話していました。
ほんとにそのとおりです。
誰かがこういう発言をするときに、「感謝を忘れるな」とか「自分ひとりでやったような気になるな」いう内容の声を聞くと、わたしは
何をすっとこどっこいなことをおっしゃるのですか?と反論したい気持ちになります。
どんなよいコーチがいて、周囲のサポートがあって、ファンが応援してくれたって、
ハーディング元選手が言うように、あんな空中で何度も回転したあと、ものすごいスピードで落ちてくる身体を支えてくれるのは、あし1本。
それができるまでひたすらバカみたいに(←「空手バカ一代」のバカの意味)練習したのは本人です。
人は死ぬまでひとりです。
競技スポーツに限らず、仕事でも個人的なプロジェクトでも、あなたが達成したことは、あなたが達成したのであって、それをやったのは、あなたなのです。(しつこいですけど何度でも言っときます)
間接的・直接的な人の助け無しに達成できることなんてこの世にはありません。それでもハーディング元選手みたいに
これは*自分が*やったのだ!と声に出していいと思うのですわたしは。
自分がやったのだと認めることと、ひとの協力に感謝をすることは、相互排他的なものではない。一方を選んだからといって、もう一方を捨てたわけではないのですよね。
日本ではハーディング元選手みたいに大きな声で言うと総スカンになるかもしれないけれど、言える場所をみつけて、もっと言っていいと思います。
わたしは聞きたい。
本日のスペシャル
1日1新:茶菓 和久傳 蟹の蒸し寿司とホカホカわらび餅
1日1冊:Viet Thanh Nguyen「The Sympathizer」、Brené Brown「Braving the Wilderness: The Quest for True Belonging and the Courage to Stand Alone」各少々。