その日の朝、カフェのレジに並び中、はっと気づきました。今日はママが死んだ日。
なんだ~。だからここ一週間、夜中に目が覚めたり左の目尻がぴくぴくしてたんだ。ほっ。すっかり忘れていたけどゆっくり母と過ごす日にすることに。
ずいぶん前に妹と母の話をしたときに、妹がこんなふうに言うのです。
「自分がこういう人間になっちゃったのはママのおかげ、そして、こんな自分になってよかった。ママはめちゃくちゃな人だったけど、絶対に他の人じゃイヤだった。他の人がママじゃこんな自分になれないから困るんだよ」
ほんとほんと。わたしも同じ思いです。母じゃなかったらこんなわたしになれなかったから、ほんとにほんとに他の人じゃ困っちゃうんですわたし。
性格も体質もセンスも好みもぜんぜん違う妹とわたしが、同じことを言っているのはなぜか:
ふつうはこうだから、女の子だから、人が見ているから、そういう風に決まっているから、と母から言われた覚えがありません。
母が言ったことよりも、母が絶対に言わなかったことのほうが、子どもの人格形成に深く影響したのでは、と今は思います。
母が絶対に言わなかったことっていうのは、おそらく母が考えつかなかったことだと思うので、母が努力してどうこうしたというよりも、ただ母はそういう人だった、ということです。母が母でいてくれて有り難かったな。
他にも母に感謝していることをいくつか書きます。
わたしのデザイン重視が母ゆずりであること。母とわたしは違う人間ですから、好きな色や形や素材は違います。でも、ものや空間がきれいに見えるということがどういうことなのかを探求する心は、母から学びました。
本を読むのが大好きだったこと。本を持って自分の世界にこもる人間の姿を見せてくれたこと。それがあるべき姿だと思わせてくれたこと。
いつもわたしのヘンなアイディアをおもしろがってくれたこと。こういう風にしたい、というとやらせてくれるし、いいなと思えば自分もやってみる。
専業主婦だった母が離婚して失業し、アルバイトでもしようというとき。インターネットは無い時代ゆえ、約15歳のわたしは床に広げた朝日新聞の求人欄に顔をくっつけて、六本木のスナック(クラブ?)の仕事を見つけました。母はさっそく面接に行き、年齢をサバ読んで働き始めました。(が、すぐクビに)
子どものわたしが自由に作った料理を、餓えた獣のようにガツガツ食べてくれたこと。(これは父も妹も同じで、まずいものとかなかったんだろうか?と思います)
母が自死したのはわたしが高校を卒業して数ヶ月後です。
それからずっと、起きているときは母のことを楽しく思い出し、悲しみ、うれしく話すことができるのに、たまにみる夢のなかではいつも母を探し回っていました。
見つけたと思うと、いないのです。やっと会える!と焦ってドアを開けると、部屋の向こう側にもドアがあり、そこから出ていったばかりよ、と誰かが教えてくれるのです。わーわー泣いて目が覚める。
なんてことを30年。ある日その部屋に入ったら、母がお気に入りの皮のソファに転がってニヤニヤしていました。
わたし 「それでね!『最近どうしてる?』って言ったのです」
Nさん 「そうだったんだ~。よかったね。お母さん、あゆう子さんに、どうしてる?って訊いてくれたんだ」
わたし 「は?そんなわけないです。どうしてるか訊いたのはわたしで、母は自分の話をするんですよ」
Nさん 「そ、そうなんだ、アハハ~」
ふたり 大笑笑
本日のスペシャル
1日1新:山形そば ふくや 冷だしそば
かなり柔らかめにゆでてもらいました。それでもひたすら噛み噛み。たくさん残してしまったので、次回は「量は半分、ゆで時間は2倍」でお願いしよう…と思ったのですが、そんなのやめやめ。
山形そばって極太で、ゆで時間もともと長くかかる。ゆで釜ひとつの小さなお店で、2倍の時間ぶん専有させてくれ、ってありえないわ。
1日1冊:しぶ「手ぶらで生きる」、Ijeoma Oluo「So You Want to Talk About Race」
高校3年のクリスマスあたり、母にリクエストされて苺のレアチーズケーキを作っていました。飲み会に持って行く、というのです。その様子をみた妹が怒るので、妹にも小さな型でミニサイズを作り、冷蔵庫に入れておいたら…妹は大きいつづらを持って逃げ、お正月明けにお友達の家から帰ってきました。
(冷蔵庫を開けて大きいのがなくなってたときのわたしのびっくり感といったら!自分のじゃないのを持っていくという考えが浮かびません。だからどんくさいのかしらわたし)